中山恒三郎家の歴史

川和町と中山恒三郎家

三代目恒三郎の写真
三代目恒三郎 1877-1930年、中山家の全盛期を築いた。

横浜市の北西部に位置する青葉区・都筑区・緑区・旭区の4区は、かつて都筑郡に属しており、その郡役所は都田村大字川和、すなわち現在の都筑区川和町に所在した。日野往環(現・横浜上麻生線)に沿って家々が集まる川和は、都筑郡の中心地であり、1972年(昭和47年)までは横浜市の緑区役所も置かれていた。また、全国的な菊の産地、名所としても知られ、秋になると多くの人が川和を訪れた。そうした地域のなかで、隆盛を誇ったのが中山恒三郎(なかやま・つねさぶろう)家である。

 

中山家は酒類問屋、醤油醸造業を営むとともに、当主は代々「中山恒三郎」の名前を襲名、地域のリーダーのひとりとして活躍してきた。1938年(昭和13年)に内外新聞通信社が発行した『神奈川県勢総覧』は、「中山家は郡内一の豪商、または資産家であり、そして「中山恒三郎商店」で通る県下有数の大商店である」と紹介している。中山家の歴史を紐解くと、初代は江戸時代に酒類販売、荒物雑貨、呉服太物の営業を開始、それを引き継いだ2代目が新たに醤油製造を加え村会議員も務めた。さらに1898年(明治31年)に家督を継いだ3代目は煙草や塩の販売にも進出したほか、太陽製糸会社や神奈川県農工銀行の重役、郡会議長なども務めた。その後、4代目・5代目と家業を引き継ぎ、現当主の健氏が6代目にあたる。

 

松林甫での観菊会場の写真。東屋も設置された。
「松林甫」で行われた観菊会 毎年開催され多くの人々が訪れた。

また、中山家の自宅庭園「松林圃(しょうりんぽ)」は「川和の菊」の中心地で、江戸文政年間に幕臣・松浦氏より譲り受けた秋菊の苗を代々の当主が改良・発展させてきた。1881年(明治14年)には、宮内省(現・宮内庁)に菊を献上したほか、3代目は作品集である『菊の香』(大日本正菊協会、1910年)などを刊行している。先の『神奈川県勢総覧』は、「霜凍る晩秋ともなれば、そこに繚乱として咲き乱れる花を賞せんとの雅客で埋められる」と、人びとでにぎわう松林甫の様子を記している。皇族をはじめ、県知事や市長、徳宮蘇峰などの著名人も松林圃を訪れ、「川和の菊」を楽しんでいった。

(横浜開港資料館 吉田律人 文)

中山恒三郎家略系図

中山家の先祖は、遅くとも17世紀半ば(江戸時代)には都筑郡川和村に居住していた。文政年間(1820年代)に次男(あるいは三男とも)の初代恒三郎が、当主である父、五蔵と共に現在の「松林甫」にあたる土地に移り、「中山恒三郎家」を興した。

一方、中山本家では初代恒三郎の長兄、民蔵が当主五蔵の跡を継ぎ、民蔵の家系は「本宅」、中山恒三郎家は「新宅」と称されるようになる。現在の本宅当主中山正美氏によると「『ある道を境に五蔵が本家と分家とに土地を分け、分家としては大きすぎるので“新宅”』と呼ぶようになった』と聞いている」とのことである。なお、明治時代には民蔵の孫が「2代目五造(蔵)」を名乗り、これと区別するため、初代恒三郎の父の五蔵を「初代五蔵」と呼ぶ。2代目恒三郎の弟、初代幸三郎は恒三郎家より分家し、「西店(にしだな)中山幸三郎商店」を興した。恒三郎家の西にある店なので「西店」と呼ばれた。

昭和5年(1930年)に3代目恒三郎が逝去すると、その跡を継いだのが数え年17歳の4代目恒三郎(幼名芳郎(よしお))で、明治学院の学生であった。その母は西店初代幸三郎の娘、ヒサである。4代目恒三郎は写真撮影が得意で、多くの写真を残したが、昭和19年(1944年)に数え年32歳で病没した。

これにより、3代目恒三郎の末娘、禮子が家督を継ぐことになる。当時数え年18歳、フェリス女学院に在学中であった。禮子は昭和26年(1951年)に有馬村門沢橋(現在の海老名市)の左藤静男と結婚。静男は中山家に婿入りし、結婚1年後、5代目中山恒三郎を襲名した。

3代目恒三郎の逝去から禮子の5代目恒三郎の結婚までの間、中山家を支援したのは、主に3代目恒三郎の弟、忠治(ちゅうじ)と、ヒサの弟の西店2代目幸三郎であった。5代目恒三郎(左藤静男)は北海道大学で林学を学び、中山家に婿入りしてからは短期間神奈川県に勤務した。戦後は「中山恒三郎商店」を県下最大手の酒類卸問屋に復活させ、同時に地域各団体の役員を多く務めた。

4代目恒三郎の写真
4代目恒三郎 写真撮影が得意で多数の写真を残している。
5代目恒三郎と禮子 昭和40年11月中山家における園遊会の時のもの
5代目恒三郎と禮子 昭和40年11月中山家における園遊会の時のもの

略系図HP用220728余白加工
中山恒三郎家略系図


「松林圃」および「中山恒三郎家」の経済的基盤を支えたのは、家業の「カネマン*中山恒三郎商店」であった。中山恒三郎商店の利益は①商売への再投資、②松林圃、③その他奉公人含む生活費に3等分されていたという。

中山恒三郎商店は、酒卸売、醤油醸造、呉服、雑貨、薬、塩、たばこなどを扱い、3代目恒三郎の時代に全盛期をむかえた大商店であった。現存する店蔵が本店で、その裏に醤油工場、「松林甫」敷地の外の県道沿いには呉服店(ごふくだな)など、店舗を兼ねた蔵が12号蔵まであったという。薬については、2代目恒三郎の弟の初代幸三郎がカネマン西店中山幸三郎商店を興した際に、西店の扱いとなった。

主力事業は一貫して「酒類問屋」であった。平成27年(2015年)から行われた、横浜開港資料館・横浜都市発展記難関・横浜市歴史博物館による中山家への調査では、未使用の日本酒や焼酎のラベルが見つかっている。かつては、蔵元から原酒をそのまま仕入れ、カネマン中山恒三郎商店で、割り水、瓶詰、ラベル貼付を行なったうえで販売していたようである。関東をはじめ、灘・伏見など各地の酒蔵と取引していた。灘の清酒「白鹿」の「辰馬本家酒造」、奈良の清酒「八咫烏」の「北岡本店」、麒麟麦酒(現・キリンビール)の特約店として、3社とは取引が永く、関係も深かった。「白鹿」「八咫烏」「中山専売」の3社の名前が入った、販促用と思われる湯呑みが発見されている。

また、禮子は「昔は、麒麟麦酒を山梨の笹一(酒造)に卸し、帰りの便に清酒笹一を積んできた」と語っていた。詳細は今後の調査に委ねるが、現在の笹一酒造(山梨県大月市笹子)の系譜につながる「山梨酒造」のトラックの写真や「笹子酒造」の未使用ラベルも見つかっている。

第二次世界大戦では男手がなくなり、商売も大きな影響を受けた。戦時中から戦後間もなくの「出勤簿」には、中山忠治(3代目恒三郎の弟)等、4名の名前しか載っていない。昭和30年ごろ、カネマン中山恒三郎商店は株式会社中山恒三郎商店と改組し、5代目恒三郎が社長に就任した。すでに醤油醸造は終了し、本店は「松林甫」敷地外の県道沿いに移転し、「松林甫」の敷地は自宅として、また、いくつかの蔵が商品倉庫として使用され、取引先を招待した「園遊会」が盛大に開かれている。昭和40年代前半には、「松林甫」敷地外に大型倉庫が完成し、園遊会もそちらで開催されるようになった。

中山恒三郎商店店主(3代目)と従業員の集合写真。
中山恒三郎商店店主・従業員の集合写真 大正から昭和初期ごろ、中央が店主の3代目恒三郎。
万の字がカギに入る、かねまんのマーク
* カネマン


「松林圃」川和の菊

「松林甫」の全景写真
「松林甫」築山からの中山家全景(大正頃) 手前中央が「松林甫」の庭と花壇。

 

中山恒三郎家の庭園と築山は「松林圃」と称され、「川和の菊」の中心地であった。文政12年(1829年)、中山本家当主、初代五蔵は数え年10歳の息子、初代恒三郎を連れて江戸に商売の酒を仕入れに行き、そこで幕臣松浦氏より菊苗20余種を譲り受ける。これを育てたのが、「松林圃」における菊栽培の始まりである。

中山恒三郎家にある初代五蔵墓石、仏壇の過去張には「松林甫開基」との記載がある。五蔵は「松林圃(甫)」をかなり愛したようで、本家当主でありながら、初代恒三郎と共に「松林圃(甫)」に住み、ここで没した。初代恒三郎と住んだ「松林圃(甫)」の地が、五蔵にとっての「新宅」、元々の本家が五蔵にとっての「本宅」ではなかったのかと想像される。

その後、代々の当主は品種改良と新種の育成に努める。「松林圃」で栽培された菊は主に中菊(正菊、江戸菊とも)であった。明治14年(1881年)には宮内省(現宮内庁)に献花し、皇族をはじめ、政治家・文人など多くの人が訪れた。

 

■ 横浜開港資料館 開港のひろば第136号 ミニ展示 都筑区川和町の中山家の観菊会 

 

「残雪」という名前の菊の写真
「残雪」昭和3年3月撮影

郷土史研究科の相澤雅雄氏によれば、アメリカ人ジャーナリスト・紀行作家のE .R.シッドモアの日本旅行記や多くの横浜市内の案内誌にも紹介されていたという。また、本宅中山正美氏によると「昔は地図に名所の印がなされていた」とのことで、「小学校の遠足では松林甫に行った」という話を年配の方々から聞く機会も多い。残念なことに、第二次世界大戦の影響で菊の栽培ができなくなり、現在、中山家の菊は途絶えてしまっている。

「男山」という菊の写真
「男山」3代目恒三郎の代表作

観菊会の写真
観菊会の記念写真(大正初年)神奈川県知事も訪れた。上は周布公平、下は有吉忠一。
「勝心」で受賞した闘花会の賞状
闘花会の賞状 中菊の「勝心」で一等一席を受賞した。
中山家に残る菊関連の資料
中山家に残る菊関連の資料


*松林甫と松林圃の記載について

 「文献上は特に明治期以降は『松林甫』ではなく『松林圃』の記載が圧倒的に多い」(横浜開港資料館館長 西川武臣氏)。当家に残る書も「松林圃」です。一方で、江戸時代の記録では、初代恒三郎の父「五蔵」が「松林甫開基、松林甫で没した」と慶応年間に初代恒三郎が建立した五蔵の墓石(中山恒三郎家墓所内)に刻まれており、場所として「松林甫」が使用されています。また、中山恒三郎家の過去帳には、五蔵の実父「牧川庵機山浄警居士」(俗名吉右衛門)を「松林甫祖」と記する。また、松林甫敷地内の「鬼子母神石碑」には「慶応元年松林甫恒三郎建立」と刻まれ、古くは「松林甫」を使用したのではないかと推察します。尚、横浜市ふるさと歴史財団監修 の記録集『松林甫―都筑郡 中山恒三郎家の記録 ―』(多賀商事、平成30年(2018年))の表紙の題字は、店蔵より発見された資料群の書の字をそのまま使用しました。(この項、中山健)

店蔵から発見された文書。書かれた時期は不明。
店蔵から発見された文書。書かれた時期は不明。
店蔵から発見された明治終期から大正初めの記事
店蔵から発見された明治終期から大正初めの記事


中山松林甫・所在地(原則非公開です)

〒224-0057 神奈川県横浜市都筑区川和町890

 

横浜市営地下鉄グリーンライン「川和町」駅 徒歩10分
東急バス市03・市43「川和団地下」下車 徒歩2分

※駐車場はありません


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